内の泉

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自作カレンダーの7月のイラストです(^^)


Whoever drinks of the water, that I shall give him will never thirst;
the water that I shall give him will become in him a spring of water welling up to eternal life. ( John 4:14 )


日本語ですとこうなります。


わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。  ( ヨハネによる福音書 4章14節 )




昨日の日記、大まかに書きましたが、「罪の自覚」のことは私の教会では毎回メッセージにて問われます。
何故なら、それは私たちこの世の者にとって、切り離すことのできない課題だから。
「できない」から、ずっと取り組み続ける必要がある・・・そう牧師さんはおっしゃいます。


キリスト教で言う「罪」・・・・それは法律で裁かれることのない、目に見えない罪のことです。
だから、人には言わなくても、心の中で思ったり、つい浮かんでしまうことも「罪」になります。


聖書に、罪について明確に記してある箇所がありますので、引用してみますね。


肉の働きは明確である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。 (ガラテヤ人への手紙5章19-21)


キリスト教では、「肉」と「霊」と人間の思いを2つに分けています。
上にあるように、自己中心から来る思いは全て「肉」によるもの、神様中心から出る思いは「霊」によるものとし、心に浮かぶ思いをいつもどちらからくるものか、よく自分を吟味する必要があるとします。

イエス様の十字架上の死と3日後に復活されたことを信じる前は、私はこのようなことを全く知りませんでしたし、生活の全てを「常識」「良識」そして「経験」「体験」さらに色々な本から得た知識を元に作り上げた自分の「物差し」で計るのが当たり前であり、そこに疑うこともありませんし、疑う余地があることすら予想もしていませんでした。
でも実際は、心の中にうごめく様々な「思い」に自身翻弄されたり、自己嫌悪に陥ったり、また自分自身で立て直してみたり・・・心の中心軸がないのでそれは仕方のないこととはいえ、そういうすべてに「疲れた」りしていました。


私がクリスチャンになったきっかけは、上の罪の一つ、敵意でした。
ある人をどうしても好きになれない、何でこの人はこういう言い方、考え方をするんだろう?信じられなーい!
嫌い!大嫌い!・・・・そうしてその人からは何となくいつも上手に距離を置き、直接に関わらないようにし、それでも対面するときには心の中とは裏腹に笑顔で接していました。(ああ・・ここに書いていても恥ずかしいです)

青梅に引越してきて、娘が行く幼稚園(あけぼの幼稚園)の日曜学校に連れて行き、待つ1時間の間に行われている礼拝に参加するうちに(約8~9年まえになります)、そういう自分の裏腹な一面をメッセージの中で罪である・・と示されました。
牧師さんが私の状況をご存知だったわけでもなく、これは私の心の中だけの出来事だったし誰にも言ったことのない(言えるはずないですよね)ことだったにも関わらず、メッセージの中で語られることが、名指しで「田中さん、あなたはこういう風にしてますね!」と言われてるかのように感じ、いたたまれなくなりました。

そう気づくと次々に露呈されていく、私の本当の姿・・・外面のいいところだったり、誰かを羨んだりするところ、自分の傲慢さだったり、変に自信がないところ・・・・それはもう苦痛でした。


そういう話を聞く中で、すごく驚いたことは、


イエス様はそういうあなたのために、2千年前に十字架に架かられたのですよ



と、牧師さんが話されたことでした。


ちょ、ちょっと待ってよ。おかしくない?
2千年前の出来事だとしても、それも本づてに書いてあるだけだし、時間的に変!何で未来の私のためなんて言うの?おかしいじゃないの~。



初めはそう思いましたが、それでも妙にドキドキしました。
ドキドキというより、胸が痛かった。あまりにも自分の罪といわれる部分が汚いものか、いかにもいいお母さん風な外面をしていた自分の、心の内側がお粗末なことに気づかされて、ショックでショックで。
そしてそれをショックと感じているということは「わたしはうまくやれてる」と自分で思っていたんだ、と自分の傲慢さにまたショックでした。


そこから、私の「どうしたらいいんですか?」という求めが始まったと思います。
それは今思えば神様の促しでした。
それからは、色々な思いを越えて、クリスチャンとして生きる道を選びました。(あたかも私が選んだかのようですが、これも本当は神様のお導きなんですよ・・・私はただ従わずにはいられなかっただけ・・・)



話を「罪」に戻します。
罪は、クリスチャンになった今、私の中から消えたわけではありません。悲しいけれど、こういう思いはどうしても心の中にあるんです。
今回、連鎖祈祷会や霊交会で取り組んだ罪の自覚では、いかに私たちが罪を前に弱いか、まずそれを自覚することから始まる、と学びました。



現実のわたしって、どんな人間?


それを知るために、『 自分の中にある一つ一つの罪を自己吟味せよ(正直に!) 』と書かれた紙を手に、22項目にわたって自分を見つめました。

たとえば①ではこう書いてあります。

①私達は全ての人を許しているだろうか
 私達は心の中にうらみを懐いていないか
 また人と和らぐことを拒んでいはしないか


②~⑤も記してみますね。



②私達は怒らないだろうか
 心の中に怒りが沸いてこないか
 また、私達は短気を起こしてカッとなりはしないか
 時には憤激しないだろうか


③ねたみの感情はないだろうか
 他の人が自分より多く用いられる時、その事が私達を羨望させたり、
 不快にさせたりしないか
 私達は、自分よりもよく祈り、説教をし、立派な働きをする人にねたみを起こしはしないか


④私達は忍耐を失い、イライラしないか
 小さい事が私達をいらだたせ、悩ますことはないか
 どんな場合でも笑顔で静かに、取り乱さずにいられるだろうか


⑤私達はすぐに、ある事に対し気を損じはしないか
 人々が私達に注意を払わずにいる時、また声もかけずに通り過ぎる時、
 気にさわるような事はないか
 他の人達が重んぜられ、自分がないがしろにされる時、
 私達はそれをどう感じるだろうか




これが22まで続きます。
驚くことに、22項目全て、正直に自分と向き合って見つめたとき、どれ一つとして「全くない」とは言えなかったわたし。

自覚すらしたことのない項目もあり、ぞっとしました。
でも今回自分と照らし合わせることができてよかった・・・・とんでもなくダメダメでしたけど(汗)




こういう風に自分を知り、そのために死んで下さったイエス様に感謝し、いまも目には見えないけれどイエス様を心にお迎えして、共に歩ませていただく生き方がクリスチャンです。
そういう仲間がたくさん集まるところが教会です。

こういう罪に正直に向き合いたいと願っている者同士が集まる教会って、すごく不思議なところ。
そこにはイエス様を頂点とする思いが共通にあり、年齢や性別を越えた共通の祈りのあるところ・・・
許しあい、愛しあう・・・・だから時には厳しい言葉も飛んでくる・・・
イエス・キリストを主とした「家族」です。
昨日の、暗闇の中の教会の灯りがあんなにやさしく見えるのも、そういう土台を感じるから「やさしい」と私は感じるのでしょうね。



最初に置いたカレンダーのイラストに、


わたしが与える水はその人の内で泉となり、とありますが、まさにこれを感じるのがクリスチャンの醍醐味です(^^)聖書にある御言葉を毎日食べるように読んで、祈りの中でイエス様とたくさん会話し(不思議なことに祈りの時間をとればとるほど、応えは返ってきます!)、祈りの中でいっぱい求めていくと、心がどんどん元気になっていきます。
そうすると、現実的には「あ~あ。」と思ってしまうような出来事が起こっていても、表面的にはあたふたしても心の中は不思議なほど静かに、平安でいられるようになってきます。

色んな意味でまーだまだ、な私ですけど、それでも日々聖書の御言葉に助けられて、教会のみんなの祈りに支えられています。そして私もみなさんのことを祈りに覚えつつ、御言葉に自分を照らし合わせ、自己吟味して、神様に仕えて歩んでいきたいと思います。

イエス様と歩む毎日、歩んでからでなくては分からないのですけど・・・
「本当に本当に素晴らしいですよ」とだけ、大きな声で断言しちゃいます!(^^)
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by poomingxxx | 2011-07-21 10:46 | 信仰~こころの内側