カテゴリ:信仰~こころの内側( 120 )

ただ感謝

こんにちは。ちょっと久しぶりの更新になってしまいました。
長女の実習に伴い夜が遅くなったり(日誌を書いている横で何となく完了するのを待っていたり・・・)、早起きしたついでに(お天気もよかったので)夏のものの洗濯をしまくったりしてました。
元気に動き回っています(^^)


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上の写真は玄関の模様替えでちょっと秋らしくしたもの・・・茶香炉を焚くため玄関がいい香りです。


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でも更新が遅れた一番の理由は、カレンダーを作り始めたら自分自身と向き合う時間が増えたことでしょうか。あ、毎年そんなこと言っているのかもしれませんね。
でもこれは本当のことで、ものすごく嬉しいことなのです。
どう言ったらいいのかなぁ・・・神様との時間がさらに「密」になる感じ!というのがいいかな。


今年もやはり「御言葉選び」に苦戦しています。
だって、聖書の、どこの箇所をとっても意味のあることですからねぇ。
とは言ってもいきなり文章の途中で、短い一節を引用しても前後がなければ分からないところもあるので、
・短い言葉で
・心に鋭くつきささるもの
・クリスチャンでなくても何となく分かりやすい
・でも思わず聖書を読んでみたくなる
・・・そんな御言葉を・・・、そして過去7回作ったものとなるべく重ならないように・・・。
この条件を満たすもので、今私に示されるもの・・・・


こんな未熟な私ですから・・・。
もうそれは膨大な量から「ピピピ」と来たものをピックアップし、並べ、12にしぼって、
しぼれたらイラスト!
ああ・・・神様、どうぞもっと私をフルに用いて下さい・・・。


さて、そんな現状の中、いま私が示されていること・・・
それは「神様の赦し」のことです。
イエス様はわたしたち人間のいっさいの「罪」を背負って十字架に架かられました。
私の罪を神様に赦してもらうために、一人の人が死んでくださったのです。

自分のために命を捨てて下さった。
イエス様は命を捨ててまでして私の罪を肩代わりしてくださったのです。
さらに言い換えれば、
イエス様が命を捨てないと肩代わりできないほどの「罪」を、私は持っているのです。


教会の週報のほうも読んでみて下さいね。(9月25日の週報メッセージや、その前の週などをごらん下さい)
自分の中の罪は、自分から見ようとしないと中々見えないものですし、うっかりすると「良いこと」をしたと思っている中に、罪が入り込んでしまうことがあります。(私ってすごいでしょ?私がやったのよ・・・などとね、自分を誇ってしまうのも罪、と聖書には書いてあります。)


これらの罪から、すでに私たちは「赦された」と聖書にはあります。
それは「イエス様の十字架の死」によってです。
最期、イエス様は十字架の上で自分を十字架に架けた者の赦しを乞うて神様にこう言われます。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」


唯一。ただ一つ、イエス様の愛の死に応える道があります。
それは、「信じること」。
いまも、毎日の暮らしの中で、あたかも平安に、善良に暮らしていると自負するその思いの中に、数限りなく罪を重ね続けている私・・・。
そんな私が、唯一見る希望が「イエス様」です。
十字架の死と復活を「信じる」ことから、「暗いトンネル」の中でも光を見ることができます。
神様の赦しの中に身を置いていられることの、なんと心が安らかでいられることでしょう。


これを、多くの人にも味わっていただきたい(体験そして実感していただきたい)と思っています。
キリスト者(クリスチャン)になるのって、いい人でないとダメ?・・・そんなことありません。
自分の罪に気づいた人が、その罪を委ねて、自分のために死んで下さったイエス様に感謝して、
共に歩みたい、そう思うだけでいいのです。
今現在、イエス様を信じてない、と言い切る人の上にも、神様の恵みは豊かに注がれ続けています。
ただ気づいていないだけでしょうね。
そして、「信じる」を通過したときには、きっと、ものすごく、驚くほど!
神様の愛を受けていることを実感することでしょう。



・・・と、こんなことを考えていると、どんどん時間が過ぎてしまい、
ブログ更新することを忘れてしまうのでした。
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by poomingxxx | 2011-10-05 17:59 | 信仰~こころの内側

空を見上げて

「空き地からかっぱらってきた(笑)」と言いながらススキの束を持ってきてくれたご近所のTさん。
Tさんのおかげでお部屋の中で今年はススキを愛でながらのお月見です(笑)


ところで・・・秋は空から目が離せませんね。


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朝焼けもきれいですし、
夕方の、刻一刻と変化する雲は何度もカメラを向けてしまいます。
この窓から見える空・・・色んなことに思いが馳せます。


大好きな讃美グループ「Lyre」(リラ)には、空を見上げて歌った歌がたくさんあります。
その中の一つ、『神様大好き』もたくさんの人に愛されている讃美です。
どこまでも高くて青い空を見ているとこの歌を自然と口ずさみます。






そしてもう一つ『いつも共に』






うーーん。
またコンサート行きたいなぁ。
いつだったか、友人を通してリラのスタジオ録音に立ち会えるチャンスがあったのですが、
長女の体調不良のため泣く泣く諦めたのでした。
またあんな機会が与えられるといいな。

今夜もリラを聴きながら、時々ススキ越しに月夜を眺めながらイラスト描きます。
今日一日も主の守りのうちに歩めたことを感謝しつつ・・・・。
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by poomingxxx | 2011-09-12 21:44 | 信仰~こころの内側

ブドウの成長

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我が家の中2生(三女)の描いたブドウの絵。
上が去年の今頃、そして下は今日描いたものです。

どちらも絵画教室で描いてきたものですが、
その先生は、

「Fっきー(三女のことです)の絵も成長したね。
1年で大人っぽい絵になってきたね。」

そうおっしゃったそうです。
その言葉を胸に絵を見てみると、確かに作る色や色の重ね方が去年とはだいぶ違っています。
それがどういう意味になるかは私には分かりませんが、こうして娘の成長を絵の上に見ることができて
とても参考になりました。
まさしく、神様が娘を育てて下さってるのですね。



さて、私はここのところ三浦綾子さんの本を立て続けに読んでいます。
「道ありき」
「この土の器をも」
「光あるうちに」
どれも、三浦さんが信仰に導かれるいきさつや、その後の結婚生活、さらには信仰を深められた頃のお話が
とても分かりやすい文章で書かれています。

何度も何度も読み返している本ですが、
読む時のわたしの状態によって、この本は心に響く場所が違います。
今は祈っている友人数人のことがずっと頭から離れずにいるので、結婚生活や子供との暮らしを思いつつ、
この3冊を読みました。


もちろん、まず一番初めに迫ってくるのは、やはり自分の日々の生き方の姿勢で、
聖書に、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」(ヨハネの黙示録3章15節~)
・・・とあるように、口から吐き出されないように、気づいた反省点を悔い改め、そして神様に求めていく必要を感じました。


三浦さんの「光あるうちに」の中に、こんな言葉があります。

 一体、わたしたちの人生に、何が一番大切なことなのか。

人間にとって、なくてはならぬことは何なのか。 

毎日を、不要不急の雑事にとりまぎれて、なすべきことを忘れて生きてはいないか。

ある日、わたしたちは、そう立ち止まって考えてみなければ、自分の姿がわからないかも知れない。




この文は昭和46年に書かれたものです。この、40年以上も前に書かれた言葉は、
決して色あせずに現代のわたしたちにも問いかけています。
三浦さんのこの文には続きがあって、そこには何が一番大切なことかの答えももちろんありますが、
ここには書きませんので、どうぞお知りになりたい方は本を読んでみて下さいね。


私は娘を失いそうになったことがあります。
そうすると、「生きていてくれる」ことが最優先で、あとはもうどうでもよくなりました。
成績がどうでも、人付き合いが下手でも、〇〇できなくても、xxしてしまっても、
いま娘が生きていることが感謝です。


そう思うと、家族が与えられてる今、
子供のことで悩んだり、悲しい思いをしたり、夫とのことで自己嫌悪に陥ったり・・・毎日のそうした出来事も、
すべてが感謝に変わります。
すぐにそうした感謝な思いを忘れて、目の前の出来事に文句を言ってしまう情けないわたしですが、
やはり目はいつも神様を見上げていたいな~。
「生きている」のではなくて、わたしは「生かされている」・・・。


今朝の祈祷会で副牧師先生がおっしゃってた言葉に、はっとしました。
いつも私は「神様はわたしたちを愛して下さってる」と、まるで判を押したようにくり返して言いますが、
「この宇宙を造られた神様が、全身全霊を持ってあなたを愛して下さってるのです」
こう聞いたときに、畏れで体中鳥肌が立ちました。
それはキリスト者(クリスチャン)であっても、なくても、全く同じように「神様は愛して下さってる」のです。


いま、悩みをもっておられる方、
心がどん底に陥っていると思われてる方、
生きる希望がないと思われてる方、
楽しいことをしているはずなのに、心の中が虚しい・・・そんな方が神様に出会えますように。



明日はまた礼拝です。
喜びをもって、神様を讃美し、礼拝を捧げたいと思います。

私の行く教会のブログはこちらです。
≪青梅あけぼのキリスト教会≫
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by poomingxxx | 2011-09-10 16:45 | 信仰~こころの内側

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My son, do not regard lightly the discipline of the Lord, nor lose courage when you are punished by him. ( Hebrews12:5-6 )



わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき弱り果ててはならない。   (ヘブル人への手紙12章5-6節)



今月のカレンダーのイラストです(^^)
ずーーーっと、この箇所が心の支えでした。


でも、時が過ぎるとまた自分の課題が変わり、そして別の箇所が示されます。
聖書は・・・・、御言葉はわたしにとって大切な心の栄養です。

そして、もし心から求めるものがあるなら、それは誰にとっても心の栄養になる!
そう信じます。
どの御言葉からでもいい・・・
とりかかりとしては、自分にしっくりくる箇所からでもいい・・・じっくり読んでみて下さいね。
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by poomingxxx | 2011-09-01 23:50 | 信仰~こころの内側

祈りはきかれました

お祈りは、


すぐにきかれるものと、


こたえまでに時間がかかるもの、


そして、振り返って「応えられていたんだ」と気づくものもあります。


でもどれも、真剣にお祈りすると


それは必ず、必ずきかれます。


こたえまでに時間がかかる時には忍耐が必要ですが、


嬉しいことにその忍耐も、イエス様が助けて下さるので、


一人ぼっちでさびしく待つ・・・ということはありません。



最近、ある方のことを強く心に覚えてお祈りしていました。
そうしたらびっくり!昨日、2年ぶりにその方にお会いすることができました。

地理的に考えても、タイミング的に考えても、
それは神様のお取り計らい以外の何ものでもなく、

そこに神様の何らかの促しを感じずにはいられませんでした。
不思議だし、祈りが早速きかれたことに感謝でした。


一人でも一人じゃない。
それは本当に強い気持ちになれます。
人間の目にはたとえ一人に映っても、わたしたちはいつも愛のお方と一緒・・・。


その方には伝えたいことがたくさんあります。
もっと肩の荷を降ろしていいんだよ、その重荷を負うためにイエス様は死んで下さったんだよ、って。
そして共に祈りたいです。


でもきっとその方はご存知なのでしょう。
だから青梅にまで導かれたのだと思います。感謝だなぁ。

Tさんに、また、どうぞ会えますように。





わたしに呼び求めよ。 そうすればわたしはあなたに答える。  (エレミヤ33:3)





聖書にある約束に感謝。
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by poomingxxx | 2011-08-29 23:02 | 信仰~こころの内側

内の泉

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自作カレンダーの7月のイラストです(^^)


Whoever drinks of the water, that I shall give him will never thirst;
the water that I shall give him will become in him a spring of water welling up to eternal life. ( John 4:14 )


日本語ですとこうなります。


わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。  ( ヨハネによる福音書 4章14節 )




昨日の日記、大まかに書きましたが、「罪の自覚」のことは私の教会では毎回メッセージにて問われます。
何故なら、それは私たちこの世の者にとって、切り離すことのできない課題だから。
「できない」から、ずっと取り組み続ける必要がある・・・そう牧師さんはおっしゃいます。


キリスト教で言う「罪」・・・・それは法律で裁かれることのない、目に見えない罪のことです。
だから、人には言わなくても、心の中で思ったり、つい浮かんでしまうことも「罪」になります。


聖書に、罪について明確に記してある箇所がありますので、引用してみますね。


肉の働きは明確である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。 (ガラテヤ人への手紙5章19-21)


キリスト教では、「肉」と「霊」と人間の思いを2つに分けています。
上にあるように、自己中心から来る思いは全て「肉」によるもの、神様中心から出る思いは「霊」によるものとし、心に浮かぶ思いをいつもどちらからくるものか、よく自分を吟味する必要があるとします。

イエス様の十字架上の死と3日後に復活されたことを信じる前は、私はこのようなことを全く知りませんでしたし、生活の全てを「常識」「良識」そして「経験」「体験」さらに色々な本から得た知識を元に作り上げた自分の「物差し」で計るのが当たり前であり、そこに疑うこともありませんし、疑う余地があることすら予想もしていませんでした。
でも実際は、心の中にうごめく様々な「思い」に自身翻弄されたり、自己嫌悪に陥ったり、また自分自身で立て直してみたり・・・心の中心軸がないのでそれは仕方のないこととはいえ、そういうすべてに「疲れた」りしていました。


私がクリスチャンになったきっかけは、上の罪の一つ、敵意でした。
ある人をどうしても好きになれない、何でこの人はこういう言い方、考え方をするんだろう?信じられなーい!
嫌い!大嫌い!・・・・そうしてその人からは何となくいつも上手に距離を置き、直接に関わらないようにし、それでも対面するときには心の中とは裏腹に笑顔で接していました。(ああ・・ここに書いていても恥ずかしいです)

青梅に引越してきて、娘が行く幼稚園(あけぼの幼稚園)の日曜学校に連れて行き、待つ1時間の間に行われている礼拝に参加するうちに(約8~9年まえになります)、そういう自分の裏腹な一面をメッセージの中で罪である・・と示されました。
牧師さんが私の状況をご存知だったわけでもなく、これは私の心の中だけの出来事だったし誰にも言ったことのない(言えるはずないですよね)ことだったにも関わらず、メッセージの中で語られることが、名指しで「田中さん、あなたはこういう風にしてますね!」と言われてるかのように感じ、いたたまれなくなりました。

そう気づくと次々に露呈されていく、私の本当の姿・・・外面のいいところだったり、誰かを羨んだりするところ、自分の傲慢さだったり、変に自信がないところ・・・・それはもう苦痛でした。


そういう話を聞く中で、すごく驚いたことは、


イエス様はそういうあなたのために、2千年前に十字架に架かられたのですよ



と、牧師さんが話されたことでした。


ちょ、ちょっと待ってよ。おかしくない?
2千年前の出来事だとしても、それも本づてに書いてあるだけだし、時間的に変!何で未来の私のためなんて言うの?おかしいじゃないの~。



初めはそう思いましたが、それでも妙にドキドキしました。
ドキドキというより、胸が痛かった。あまりにも自分の罪といわれる部分が汚いものか、いかにもいいお母さん風な外面をしていた自分の、心の内側がお粗末なことに気づかされて、ショックでショックで。
そしてそれをショックと感じているということは「わたしはうまくやれてる」と自分で思っていたんだ、と自分の傲慢さにまたショックでした。


そこから、私の「どうしたらいいんですか?」という求めが始まったと思います。
それは今思えば神様の促しでした。
それからは、色々な思いを越えて、クリスチャンとして生きる道を選びました。(あたかも私が選んだかのようですが、これも本当は神様のお導きなんですよ・・・私はただ従わずにはいられなかっただけ・・・)



話を「罪」に戻します。
罪は、クリスチャンになった今、私の中から消えたわけではありません。悲しいけれど、こういう思いはどうしても心の中にあるんです。
今回、連鎖祈祷会や霊交会で取り組んだ罪の自覚では、いかに私たちが罪を前に弱いか、まずそれを自覚することから始まる、と学びました。



現実のわたしって、どんな人間?


それを知るために、『 自分の中にある一つ一つの罪を自己吟味せよ(正直に!) 』と書かれた紙を手に、22項目にわたって自分を見つめました。

たとえば①ではこう書いてあります。

①私達は全ての人を許しているだろうか
 私達は心の中にうらみを懐いていないか
 また人と和らぐことを拒んでいはしないか


②~⑤も記してみますね。



②私達は怒らないだろうか
 心の中に怒りが沸いてこないか
 また、私達は短気を起こしてカッとなりはしないか
 時には憤激しないだろうか


③ねたみの感情はないだろうか
 他の人が自分より多く用いられる時、その事が私達を羨望させたり、
 不快にさせたりしないか
 私達は、自分よりもよく祈り、説教をし、立派な働きをする人にねたみを起こしはしないか


④私達は忍耐を失い、イライラしないか
 小さい事が私達をいらだたせ、悩ますことはないか
 どんな場合でも笑顔で静かに、取り乱さずにいられるだろうか


⑤私達はすぐに、ある事に対し気を損じはしないか
 人々が私達に注意を払わずにいる時、また声もかけずに通り過ぎる時、
 気にさわるような事はないか
 他の人達が重んぜられ、自分がないがしろにされる時、
 私達はそれをどう感じるだろうか




これが22まで続きます。
驚くことに、22項目全て、正直に自分と向き合って見つめたとき、どれ一つとして「全くない」とは言えなかったわたし。

自覚すらしたことのない項目もあり、ぞっとしました。
でも今回自分と照らし合わせることができてよかった・・・・とんでもなくダメダメでしたけど(汗)




こういう風に自分を知り、そのために死んで下さったイエス様に感謝し、いまも目には見えないけれどイエス様を心にお迎えして、共に歩ませていただく生き方がクリスチャンです。
そういう仲間がたくさん集まるところが教会です。

こういう罪に正直に向き合いたいと願っている者同士が集まる教会って、すごく不思議なところ。
そこにはイエス様を頂点とする思いが共通にあり、年齢や性別を越えた共通の祈りのあるところ・・・
許しあい、愛しあう・・・・だから時には厳しい言葉も飛んでくる・・・
イエス・キリストを主とした「家族」です。
昨日の、暗闇の中の教会の灯りがあんなにやさしく見えるのも、そういう土台を感じるから「やさしい」と私は感じるのでしょうね。



最初に置いたカレンダーのイラストに、


わたしが与える水はその人の内で泉となり、とありますが、まさにこれを感じるのがクリスチャンの醍醐味です(^^)聖書にある御言葉を毎日食べるように読んで、祈りの中でイエス様とたくさん会話し(不思議なことに祈りの時間をとればとるほど、応えは返ってきます!)、祈りの中でいっぱい求めていくと、心がどんどん元気になっていきます。
そうすると、現実的には「あ~あ。」と思ってしまうような出来事が起こっていても、表面的にはあたふたしても心の中は不思議なほど静かに、平安でいられるようになってきます。

色んな意味でまーだまだ、な私ですけど、それでも日々聖書の御言葉に助けられて、教会のみんなの祈りに支えられています。そして私もみなさんのことを祈りに覚えつつ、御言葉に自分を照らし合わせ、自己吟味して、神様に仕えて歩んでいきたいと思います。

イエス様と歩む毎日、歩んでからでなくては分からないのですけど・・・
「本当に本当に素晴らしいですよ」とだけ、大きな声で断言しちゃいます!(^^)
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by poomingxxx | 2011-07-21 10:46 | 信仰~こころの内側

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週末の3連休は、私の通う教会(青梅あけぼのキリスト教会)で、24時間連鎖祈祷会&霊交会が続けて行われました。
連鎖祈祷会とは文字通り、礼拝堂にて24時間祈りの時間を捧げるというもの。誰でもいつでも祈りの時間が取れますが、一つ、目標として24時間、誰かが礼拝堂で祈っているようにする・・・というものがあります。

土曜日の朝、早天祈祷会(毎週土曜日の朝7時~7時半まで)から始まりました。
祈祷会の後、静かな讃美ピアノが小さく流れる礼拝堂に流れ始めるとパーテーションで仕切られた礼拝堂の前のほうが祈りの場所になり、たくさんの椅子が置いてあり、そこに自由に座って祈ります。


家族のことを祈り、友のこと、日々の暮らしのこと、自分の中に見る罪、自分以外の人との関係の中の課題を心に浮かぶまま祈ります。
その他『祈りの課題リスト』としてみんな自由に書き込める紙に書かれた、教会の兄弟姉妹の祈りも、順番に祈っていく・・・そうして祈りの時間はずっと続きました。

日曜日の礼拝の後は、今度は『罪の自覚』をテーマに教会のリバイバルについてのメッセージがあり、
その後小さなグループに分かれての交わりの時間。ここではお互いに自分の課題とそれの祈りを話し、祈りあいました。
食事を共にし、共に祈り合う充実した3日間でした。


今回テーマだった「罪の自覚」については、長くなりそうなのでまた今度書きますね。
写真は日曜日の夜に撮った教会の写真です。
あたたかな色の光。それは暗闇の中に見えるイエス様のイメージ・・・
くっきりそびえる十字架は、私のためにイエス様が架かられたことを意味しています。
この教会に導かれてよかった。
イエス様に出会えてよかった。
この喜びを、これからどう伝えていけるか、一生をかけて祈って探したいです。
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by poomingxxx | 2011-07-20 23:01 | 信仰~こころの内側

響くもの

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時折手にとってめくる大好きな画集、Keiko Minami の 「 bonheur 」
(南 桂子 「 ボヌール 」)

独特のタッチと、シンプルなラインの中の奥深さ・・・そしていつ見ても心静かになれる絵です。


たくさん載っている作品の中で、今日の私の気持ちにぴたっと沿うものはこれでした。


絵って不思議です。

いつ見ても「すき」なものもあれば、

見る自分の気持ちによって左右するものもあって。


今日、これを選んだのはどうしてなのかなぁ~?
静かな空気の流れる南桂子の作品の中でもわりと色濃いこの作品・・・・

タイトルは「 花 と 蝶 」でした。


そういえば、絵と同様に聖書の御言葉も、「今日は特にこの箇所が示されるなぁ」と、
やたらと心に響いてくるところがあります。
絵も御言葉も受け手である「わたし」の心の状況によって、その響く箇所が変わってくるのでしょうね。






さて、明日もしこのブログを更新したとすると、なんと6月は書き始めてから日曜日を除く毎日の更新となります。こんなこと、私にとって初めて!自分でもびっくりです。
こんなブログですが、読んでくださり本当にありがとうございます!
これからもできる限り続けてみますね(^^)
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by poomingxxx | 2011-06-29 21:31 | 信仰~こころの内側

自分の目にある梁

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・・・・タダイマ キブン テンカンチュウ・・・・・(^^)


本日2度目の更新です。


イラストDayになったのはよかったのですが、

来年度のカレンダーの御言葉選び~~♪と聖書を開いたとたん、


カレンダーの存在をすっかり忘れ、どっぷり聖書に浸っておりました~。


いかんいかん・・・と、次女への宅急便を作ってコンビニに出しに行き、(雨が上がっていてよかった!)
これからころくのお散歩に行かなきゃだよね~・・・と思いつつ、思いついたので今月のイラストをUPしてます。
(先月も、先々月も忘れちゃったなぁ・・・)



来年の箇所を探る前に、今年の箇所はどんなのを選んだっけ?・・・と、トイレに直行(笑)
我が家ではトイレに自作カレンダーをかけて、毎日何度も眺めます。


さて、6月はこの箇所です。


Why do you see the speck that is in your brother's eye,

but do not notice the log that is in your own eye? (Matthew 7:3)



日本語ですと(口語訳になります)


なぜ兄弟の目にあるちりを見ながら、

自分の目にある梁(はり)を認めないのか。   (マタイによる福音書 7章3節)




う~~~ん・・・厳しいですねぇ。

「自分のことを棚にあげて・・・」という言い回しがありますけど、ホントに気をつけなきゃいけませんね。
特にわたし。これはわたしにあててほんとによく神様から示される箇所なんです。

先日の日記にも書きましたけど、ここ一月ほど前から強く神様に促され、示されているところがあります。
それはコロサイ人への手紙3章にあるのですが、「主に仕えるように夫に仕えなさい」というところ。

これは、すべてを夫のいいなりになる、ということや、夫のためなら自分の思いをすべて我慢して捨てるということではありませんし、仮に夫が悪事を考えているときに、それにも賛同しなさいよ・・・ということでもありません。時には勇気を出して夫に思いを伝えることも含まれます。

これは神様が創られ、愛されている夫を、そして神様のご計画のうちに「わたしにとって最善!」と思われて出会い~結婚に導かれたパートナーを大切にしなさい、そして夫を支え、夫に信頼して歩みなさい、ということだと思います。


そんな御言葉に照らして自分を見ると・・・
小さなことでも自分の思い通りにならないとイラついたり、夫に一番甘えられるからと、その分八つ当たりしてみたり・・・そんな罪がどんどん見えてきます。
夫の目にあるちりには気がつくのに、(時にはそれが「ちり」じゃないこともあるのに)自分の目にある梁を認めようとしない自分・・・そして自分を色んな方向から正当化しようとする自分。サイアクですよ~。
そういう時って自分で自分がいやだし、とても「自由」からは程遠い・・・・。
いや~な気持ちにがんじがらめになっている感じがします。



自分に示されている課題を心の中で毎日祈り、そして真剣にその罪に取り組もうとすると、次々に「御言葉に従えていなかった自分の姿」が見えてきて、それが本当に苦しい。
でも嬉しいのは、そのつどその「罪な自分」があることを認めて祈るとき、そこにイエス様がおられ、私の祈りに耳を傾けて下さっている・・・ということ。
これは本当に心の支え、そして励みです。



あ!またやってる・・・。


こう思ったらすぐに!その場で心を神様のほうに向けることができますように。
そのために、たくさん御言葉を、お祈りを心の内にたくわえたいと思います。






さて、ご飯も用意ができているので、再びイラストに取り組みます!(^^)


・・・・と!!その前におさんぽでしたー!
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by poomingxxx | 2011-06-17 16:59 | 信仰~こころの内側

空の鳥 野の花

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(マタイによる福音書7章25-31節)


だから、言っておく。

自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、

また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。

命は食べ物よりも大切であり、

体は衣服よりも大切ではないか。


空の鳥をよく見なさい。

種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。

だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。

あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。



あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。




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なぜ、衣服のことで思い悩むのか。

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。

働きもせず、紡ぎもしない。

しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。


今日は生えていて、明日に炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。

まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

だから、「何を食べようか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。





昨日、洗濯物を干していたら「ジャーーー・・・ジャーーーーー・・」とツバメの鳴き声が・・・。
あまりに賑やかなので見てみると、

あれ?もう巣立ちに近い?

幼い飛び方で子供のツバメたちが電線から電線の短い距離を飛んでいました。
そうしてすぐにこうして兄弟ツバメで一緒に羽を休め、時折親鳥が餌を運んでくると一斉に口を開いていました。
親鳥は、今回はこの子へ、その次はあの子へ・・・どうしたらみんなに同じようにあげられるんでしょうね?


そんなツバメの様子を見ていたらこの聖書の箇所が思い出されました。





神様、無条件の愛をありがとうございます(^^)

小さなことでもすぐに思い悩むわたしですが、どうぞその思い煩いをあなたに委ねることができますように。

わたしにとっての「必要」はすでに満たされているし、

これからの道にも、いつもそれは時にかなって満たされるから・・・・

だから、信仰によって思い煩うことなく今日をすごそう。

感謝して。


それでいいんですよね!神様。




あ!そうそう・・・

ツバメの写真、表情をよくよく見ると・・・・


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あ!右から2番目の子がこっち向いてた!

しかも何か怒ってませんか?(笑)

お腹すいてるの?

ふふふ・・・自分で餌が捕れるようにがんばってね!
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by poomingxxx | 2011-06-11 10:48 | 信仰~こころの内側